飯島京子様
 
日記拝見しました。ご指摘の表現、お気持ちに沿えず、申し訳ありませんでした。お詫びします。
 
                             飯田 啓子
また、お邪魔します。
 
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nami さんへ
 
はじめて、ここを訪れて書かれたというあなたの文章を拝見して、たくさんのことが伝わってきました。素晴らしい文章力ですね。わずか15−6歳で、愛する方々の凄惨な死を経験され、どんなにか張り裂けそうな悲しみを心に閉じ込めて、青春の日々を考え、生活されているかが想像できます。
 
死の悲しみの深さは、死者と残されたものとの心の関係によって決まるもので、他者の悲しみと比べられるものではないと私は考えます。
 
私は、両親も夫も兄弟も娘も亡くしていますから、娘の死の悲しみについて、自分のなかで特別に重いものがあると言えますが、それは自分の喪失体験の中でのことであって、他者の悲しみとの比較はできないと思います。
 
なぜ娘の死の悲しみは重いかといえば、きっと娘は、お腹の中から日常を重ね合わせた十分に自立しない庇護すべき存在のままであったからだと思います。
 
一方、子供の死を経験しない方には、別の等身大の死の悲しみがあると思います。あなたのように、親より友達のほうが大切なような時期の、同年代の感性が重なり合う、大切な人達の死の悲しみについては、他者の悲しみと比べようもなく悲しいものだと思います。
 
たとえば、私の場合、娘を亡くした私と、世代を共にする姉を亡くした息子の悲しみの大きさに、質の違いこそあれ、大きな違いがあるとは思いません。喪失の悲しみの時間の長さは、未来が長い分、むしろ息子のほうが長いだろうと考えます。
 
ただ、若い人には悲しみが大きければ大きいだけ、悲しみを原動力にして、人生をダイナミックに命がけで切り開いてゆける力があります。あなたも、多分、医療ミスや愛する方達の死の体験を原動力に、医療の世界を志していらっしゃるのではないでしょうか。前途は未知で洋々です。
 
ところが、子供を失った中年の親達には、これまでに築き上げてきた同じレールがあるだけで、そのレールは生活のために容易に取り替えられず、同じ場所に横たわり続けているのです。
悲しみは子供と一緒だった日常の中で澱みつづけることでしょう。憎しみもきっとそうなのだと思います。
 
あなたがおっしゃるように、憎しみが年齢によって違うということはないと思いますが、悲しみや、憎しみの澱み方の違いは、歴然とあるのだろうと思います。
 
ご自分の中の力を信じてください。未来を感じ取る力はあなた達のほうが古い世代より遥かに優れていると思います。また、その論理的な文章から、立派な判断力をお持ちだと伺えます。反論があっても、そこから学ぶべきことの是非の選択は、あなた自身の判断でしかありません。いろいろな意見があります。嘆くことではないと思います。ご自分を大切にしていってください。                    
 
                            飯田 啓子